思ったのですが・・・。
終身雇用を否定して非正規雇用を拡大することは、ブナ林を破壊して商品木材を植林することに似ています。
ブナ林が、水分をはじめ、養分を環境中に保蔵することはよく語られます。それが源泉となって、多様な生態系が繁栄して、豊かな自然が美しい緑を育みます。
日本を取り戻す・・・。と、いってますね。
ブナ林自体は商品価値がありません。一方、杉や檜の植林が生み出す資材は利益を生みます。何世代もきちんと手が入った植林は、里山と自然が融合した人々の営みを受け継がせ、まさに「美しい国」の風景を見せてきました。
里山近くの尾根道を登ると、集落からのびる山の斜面に整然とした植林が、ところどころ原生林と組み合わさってモザイクをつくり、人間の営みと自然との共存関係を四季それぞれの色彩で表現してくれています。
ところが、近年安価な輸入材などに押されて日本の林業を取り巻く環境は厳しくなり、放置され荒れる森林も増加し、実際に分け入る野山に無残な風景が見られるようになりました。
この無残な風景と、今、そして未来の日本の労働市場の姿がかぶります・・・。
長い歴史の中で作られてきた日本人の体質は、それぞれの時代場面の中で“小さな帰属意識”をつくってきました。それはささやかな安心を人々に提供し、その安心が国家を揺るがす革命を回避させてきました。
映画「七人の侍」の中で、農民出身の侍演じる三船敏郎が、農家の床板を剥がして、そこに隠してあった農民の備蓄をあばくシーンがあります。
封建時代、農民は土地に縛り付けられましたが、同時にそこは生きる知恵や工夫が許されました。
「百姓は財の余らぬように不足なきように」という徳川為政者の根本理念は、権力者の生存原則でありましたが、豊かな自然の中で、村人は様々工夫して微々な生活向上を楽しみにしていたのかも知れません。
村は人が生まれ育ち、働き手となり、子孫に人生を受け渡す場でした。村への帰属意識の醸成されたのでしょう。
集権的なキリスト教社会と異なり、村人は小さな村の祭礼社会に意識を置いていましたから、国家的信仰心はありませんでした。
さて近代日本は、その村社会をみごとに企業社会に置き換え、近世農民を勤勉な従業員に転換しました。終身雇用によって企業に帰属意識を持ちえた勤労者は、村の知恵ならぬ品質管理にも貢献してきました。
この勤勉な勤労者こそが、社会全体に価値をもたらすブナ林であったことは間違いありません。
ブナ林を伐採して植林を増やすような非正規雇用が常態化した今、その現実をまったくに否定することはできません。
しかし、かつて日本の植林が営々と自然林と共存してきたように、企業に帰属意識を持てる正規社員と、企業の都合で存在する非正規社員ともに、それぞれの人生設計が可能となるような経済社会を描けなければ、そこには、自然界と同様に、何も産み出しえない荒廃した風景が横たわることになるでしょう・・・。