誰でも分かることだと思うのですが。
「巻きこまれ型」戦争への道です。
国防軍。
何を護るのかといえば、積極的に交戦している同盟国の利益保護のために、自国も戦闘参加の正当性を得て、自国の交戦権を保守するということです。
“平和憲法”の条文を改正せずとも、集団的自衛権の容認は「解釈改憲」のゴールです。
同じようなことは少し昔にもありました。
植民地主義が世界地図を覆っていた時代に、東アジアをめぐる西欧諸国の駆け引きの中で、ある意味、日本はその代弁者となって侵略戦争を遂行しました。朝鮮半島の植民地化は、列強侵略の正当化でもありました。
今は、米国の代弁者である限り、日本は世界と相互に正当化しあえます。
昔、昔、大義名分は天皇にありましたが、今、日本にとっての大義は米国にあります。
さて、その米国にはアーリントン墓地があって、国家に命を捧げた人々が眠っています。
将来、集団的自衛権の発動によって、“国防軍兵士”に死者が出た場合、その霊は靖国神社に祀られるかもしれません。政府がしなくても、有志がそうするでしょう。しかも、その時、亡くなった兵士の戦闘参加をおおっぴらに批判する人はこの国にはいないでしょう。
いれば、“非国民”になります。
少しずつ国粋主義が醸成されて、日本人の勘違いが始まります。
昔、そして昨今の戦争のような、戦場での蛮行でもないかぎり、“国益”のために命を捧げた人は美化されます。
つまり、そういう戦死には価値が与えられ、決して否定はされません。
しかし一方、原発作業員が段々忘れられているように、戦場の犠牲者に対する感覚も薄れていきます。
今、その“近い将来”に対して、自分自身が問われています。
私はその戦死を否定できるだろうか・・・?
私、そして国民全体が否定する時が来るとしても、それは放射能が直接自分の肉体に降りかかって来る時のように、頭上から爆弾が落ちて来るまで待たなければでしょう。
この国民、いや人間とはそんなものです。
今、その“近い将来”に対して、自分自身が問われています。