6月10日(日)まで、東京国立博物館で開催されています。
明治期に、現在であれば国宝級の美術作品が、フェノロサをはじめとする外国人によって“買いまくられて”海外流出しました。
と、いわれます。
ただ、当時は文明開化「脱亜入欧」の掛け声の下、アジア蔑視の風潮や、政府の宗教政策によって廃仏毀釈のような愚行もあり、貴重な文化財が危機に瀕しており、これら収集家の活動は、破壊からの避難であったともいわれます。
この“避難”に尽力したフェノロサ、ビゲロー、そして彼らと行動をともにした岡倉覚三(天心)は、今日「貢献者」と評価されているわけです。
収集された至宝をアメリカ、ボストン美術館が収蔵し、今日、海を渡って里帰りし、100年の時を経て、私たち日本人に“見せてくれる”ということに、伝統文化に対する歴史の違いを考えさせられます。
残念なことに、その後進性が今だにこの日本は改まっていません。
照明の暗い館内で、さらに大勢の来館者の人垣によって、落ち着いた「作品との対話」の時間は持ち得ません。
それでも、「本物」との向き合いは、言葉での表現を許さないような衝撃を得られます。
故に、当然この場で文章表現することはできません。
ミロのビーナスやモナリザなどの本物と出会った時には感じ無かったものを感じたのは?、その理由は何であったかを考えました。
日本人として純粋な日本文化と懐合した感激なのか、
単に自分が歳をとったのか。
故に、当然この場で文章表現することはできません。
何事も、ホンモノに出会うことの意味を、また感じた一日でありました。