びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

災害保険 その2

 12/15の記事の続編です。
 
 この20日間の話になります。諸事忙しい折、少しストレスになりましたが、勉強にはなりました。
 
 最初の保障申請については、鑑定扱いとなり、鑑定会社の結論は、被害箇所の明瞭な痕跡が見当たらないということで不認定の通知が送付され、

 エッ! と驚き、、、気持ちを切り替え
 
 被害箇所に無数のひょう痕があり、建物の経年劣化はあるものの、今回の被害が降雹にあることには確信があったので、細部の穴のあいた画像を添付した追加資料を送付し、再認定を依頼しました・・・。
 
 早い対応でした・・・
 
 経年劣化による、該当箇所の〃脆弱性〃を再度指摘されましたが、実際に金属板に穴があいた画像が決め手だと思うのですが、雹害認定がされました。
 
「銅製の板金箇所に、長い年月、徐々に瓦の釉薬が溶け出す水流によって金属表面が浸食されて劣化して破損することがあります。」

 が、
 
 今回の件は、ひょうが打ち付けたことによる穿孔であると災害認定する旨の連絡を頂きました。
 
 という訳で、自然界から受ける人工物の劣化現象のことや、災害保険の申請から災害鑑定~保険認定・不認定の手続き等々、この歳になってはじめての勉強となりました。
 
 いずれも、対応された方々の紳士的態度には救われて、こういうことが成り立っている日本社会はまだまだ崩壊してないなと、少し大げさな気持ちと安堵感を得ました・・・。

イーロン・マスクの予言

 少し前の話ですが、
 
 「日本は消滅する」と言ったそうです。
 
 理由は、亡くなる国民が生まれる国民の2倍いる という趣旨のようです。
 
 人口減少
 
 これは多くの国民が感じていることなので、目新しくないのですが、先を読み、世界経済の中で先端的に活躍している人物の発言であるので、
 
 〃これは間違いない″ と思います。
 
 別の意味で・・・
 
 
 少子化対策という言葉がもう何年もいわれてますが、まったく機能してません、
 
 どころか、人口減は加速度的に進行し、社会全体の活力も減退し、国の指導者たちも本気度まるでなく、未来のない金権・保身主義だけがはびこり、問題化してます・・・。
 
 と、
 
 では、「日本は消滅する」とは、どんな真意があるのでしょうか?
 
 私が思うには、この発言は否定的な響きではないのでは、
 
 何せ、マスク氏の歩んできた道は、新しいものが大きくなって行くときには必ず後退していくものがある・・・というもの
 
 その両方の〃タイミング〃を読めるからこそ、自分の進む道も探り当てている人物であるのだから、
 
 「日本の消滅」とは、現在のあり方が、別の在り方に移り変わる結果としての消滅であるという、未来投資的なニュアンスがあるのだと、、
 
 勝手な想像ですが・・・
 
 そのように解釈しないと、先端的な人について行くことはできないでしょう。

災害保険

 2カ月以上ブログ書きをお休みしました。
 
 何故か文章が書けず、いろいろな出来事があったのに、それが忙しくてというより
 
 言葉を失っていたという感じです。
 
 
 築36年になる家に住んでいて、あちこち直しながらも昨年6月に、はじめて激しい雹災害に見舞われ、外壁回りの損害を受けました。
 
 長いこと災害保険に加入していたので、これもはじめて昨年末に請求し保険適用で修繕しましたが、実際には工事費の7割程度の補填でした。
 
 
 今年になり、11月のある夜、激しい雨が降りました。
 
 それから数日後・・・、

 たまたま一階の空き部屋を簡単な模様替えリフォームをしていて、寒さ対策の断熱材の確認をするために、一階屋根裏の確認に入ったところ・・・
 
 天井裏側に浸水の跡がみられ、乾かずに水が溜まっている箇所もあり驚きました。よく見ると、2階屋根の野地板に水が滲みた跡が広がり黒くなっているのを発見! 垂木もやられてます!!!
 
 恐らく、今回の雨だけでなく、しばらく前から起きていた症状です。
 
 自分で何とかなるかと屋根に登ってみたものの、
 
 「これは専門家にみてもらわないと・・・」
 
 連絡を入れると、即日近隣の屋根工事の専門家が来てくれて、さっそくに現状確認してくれました。
 
 結論としては、2階屋根にドーマー開口部があり、瓦が交差する〃谷〃の部分の銅板と瓦の一部に、激しく雹が当たったことによる〃穴〃が確認できました。
 
 これは放置できませんので、乾期の間に修理するべく工事発注となり、現在工事待ちになってます・・・。
 
 昨年、外壁や雨樋がやられた部分について全労災に保険申請をし、前述のとおり工事費の7割程度の補償をしてもらっていたので、今回も追加申請ということで必要手続きをとりました。
 
 
 10日後の今日、文書が郵送されてきて、損害鑑定の必要性が指摘されて、「鑑定会社」を通して確認・精査が必要の旨、そのための手続き期間として最大90日の履行猶予となります・・・・と、!
 
 エッ!という感じ。
 
 昨年は補償額に若干の不満はありましたが、早い対応で助かったのですが、同じ罹災日の案件について、たまたま症状の発見が1年遅かったことで、
 
 鑑定!?
 
 申請の際には、詳細がわかる現状写真等も同封しているので、一体何故?
 
 ということで、早速に案内にあるサポートセンターに電話し、現場状況では、早急に工事をしたいので、工事後に鑑定といっても、90日も待てませんが、、、ということで、確認すると、
 
 「分かりました、来週には連絡できるよう取り計らいます」的な対応をしてもらいました・・・
 
 少し、ホッとしました 
 
 が、
 
 あれですか? ここのところ自然災害があちこち多くて、もしかしたら水増し請求のような〃不正的〃なことがあったりとか、対応がシビアになってきているのでしょうか
 
 しかし、工事業者見積額は借金しなければ払えないような法外な額でもなく、とにかく次の大雨前までに工事をして欲しいというのが本音で、お金のことでいえば、20年以上保険金を毎年引き落としで払ってきていてその額は相当なものになっているので、
 
 こんな人を疑うような対応をされたことは、正直気持ち悪いことです。

笑顔をわすれる

 自分のことです。
 
 だいぶ昔からですが
 
 
 たとえば、
 
 人類のこととか、
 
 世界中で様々な不幸があって、苦しみもあって
 
 形をかえて、それは身近にもあって
 
 明らかに人間が原因のことがたくさんあって
 
 原因の張本人は、のうのうと存在していて
 
 そして、そういうことに腹をたてている自分がいて

 笑えない現実の前で 
 
 「そんなこと言っても、どうしようもないじゃない」
 
 とあきらめてしまう周囲もあって
 
 祭り、娯楽、趣味に興じて忘却する大衆がいて
 
 かといって、自分は何もできなくて
 
 そんななさけない自分を恥じて・・・
 
 そんな日常が連続して、高速で時間が過ぎ去って
 
 考えてみても・・・
 
 
 不幸は生きている人間の実感
 
 死者にはもはや感情はありません
 
 生の連続の中に不幸があるという現実
 
 結果として、自死者も増える現実
 
 
 それを招くのは孤独?
 
 高齢者の孤独
 
 勤労者の孤独
 
 子どもの孤独
 
 
 AIとかSNSとか、〃第7の感覚〃が発達したことで、「新しい孤独」も発生
 
 人と人が直接かかわらない
 
 文字と仮想がつなぐ、空気感のない接続が、
 
 あきらかに孤独を助長する
 
 仕方ない、つくられた笑顔の後ろがわに
 
 笑顔を忘れた孤独が存在しています
 
 
 ただ、しかし・・・
 

 孤独自体は不幸ではなくて、それは原因が除去されることで回避されうるもので、結果自死者も減少します
 

 それよりも、
 
 山野を巡っていた中学生の頃に思ったことですが
 
 自然と人間の関係、、、

 最近顕著に感じる自然界の異変
 
 なぜか、いつか笑顔が復活するのでは
 
 という予感もします

「普遍的」の意味

 実現不可能という意味と同じだろう・・・
 
 と思われます。それは肯定的意味で。
 
 普遍的とはまさに〃的〃であって、普遍そのものではないので
  
 
 人間のことで考えると
 
 どうしてこんなに沢山の個性がぶつかりあっているのでしょうか?

 視野を少し広くすると、
 
 動植物の世界は、どうしてこんなにも多種多様なのでしょうか?
 
 さらに超越して考えると、
 
 どうして、私たちは宇宙の究極を見つけられないのでしょうか?
 
 
 普遍的の意味の究極は真理(truth)のことです。
 
 誰が見ても、考えても、それを「否定できない答え」のような
 
 つまり、物差しでははかれないもの
 
 
 抽象的に想像してみれば、何となくイメージは感じられます
 
 「差別のない世界」とか
 
 肉体も精神も「苦しみのない世界」とか
 
 「欲望と節制」の区別のない世界とか
 
 
 具体的に芸術で表現すると、ジョンレノンの「イマジン」の世界とかhttps://www.youtube.com/watch?v=wARpk54fv8U
 
 逆説的に表現すると、ピカソの「ゲルニカ」とか 

 丸木さんの「原爆の図」とか

 こんなことを考えるのはみんな嫌いですね
 
 嫌いという感情そのものが、「普遍性」の阻害要因ですが
 
 ただし、このことは、人間が地球上に登場する遥か以前からあったことで、
 
 「普遍性を阻害する要素」に自然界は満ち満ちていた・・・
 
 どうやら、それこそがこの自然界の基本原理であると
 
 それは理解できます
 
 普遍性が実現した形になってしまうと、もう変化の必要性が消滅し
 
 そこから先は「無」となると、、、想像できます。
 
 だから人に意識があるかぎり、普遍性は手に入りません
 
 そして苦しみます
 
 やがて意識の限界がきます
 
 その限界の先はなんでしょうか
 
 「死」であるとしか想像できません
 
 「普遍性」を得るために、どこまでも「普遍的でありたい」と生きる人間に究極性はありません、手に入らないのですから
 
 なので、「あきらめた時」・・・死が待っています。
 
 能動的であれ受動(必然)的であれ、死には普遍性が隠れているような感じがします。
 
 全てが死にますから、人間に限らず、あらゆる物質が
 
 
 何となく、答えがみつかりそうです
 
 
 この「普遍」を見たくないがために、人は「様々な衣」を身に覆いかぶせて意識を消し去ろうと試行錯誤や逃避を繰り返し、その″可愛さ〃と″哀れさ〃は小さな芸術や宗教をたくさん生み出してきましたが、
 
 どうやら、そろそろ「見たくない本質」を真正面から見つめなければならない時が、キリスト教歴の21世紀の現在に訪れているかと・・・この今の現実
 
 そこには、この「無限の大自然の決まりごと」があるような感じもします。
 
 現在問題になっている気候変動なども、人間存在が原因とか、長い自然サイクルの繰り返す出来事とか、どうやらそんな議論の中にも「普遍性の迷走」が見え隠れしていて、
 
「どっちが原因だって、仕方ないだろ!」

 確かに、これは避けがたい現実だとすれば、戦争も自然災害も区別はありません、、、
 
 そして、たった一つ、人間に可能なことがあるとすれば、
 
 それでも「普遍」的であろうと、努力する意思を持つということです・・・

特殊詐欺対策

 日本の個人の金融総資産額が2115兆円になったと報道されました。預貯金よりも主に株式、投資信託の残高増が背景にあるようです。
 
 ついでに、反対に日本の財政赤字、つまり国の借金は1200兆円以上ですね!
 
 
 敗戦直後の1946年2月に政府が断行した「預金封鎖」を思い出します。私が生まれる前の歴史ですが、そんなことがやられたんですね!!
 個人の預貯金の引き出し額を世帯主で現在額に当てはめて12万円までと定めたそうです。
 こんなことが実際予告されたら〃取り付け騒ぎ〃で銀行パニックになりますから「勅令」(当時は憲法改正前だったので天皇の命令として)が突然発令され、戦争時代は黙って天皇(神)に従っていた国民なので・・・
 軍事費で膨れ上がった国の借金を国民から剥ぎ取ろうというのは、、、今の日本だったら、政権交代になるでしょうか・・・?
 
 
 ところで

 そして現代
 
 高齢者を狙って現金を騙し取る犯罪が絶えません。毎日定番でニュースや啓発番組が放送されていて、観る側としては、
 
 えっ、なんで騙されるの?
 
 なんで、そんな大金すぐ出せるの?
 
 周囲の人は知ってたの?
 
 ?????
 
 と、他人事のように疑問を感じてしまいます
 
  現在、日本の家計の平均貯蓄額は1000万円前後で、これはあくまで平均なので、それに遠く満たない「貧困家計」、一方1億円を超えるような「超家計」も存在してます。
  
 まさに格差ですが・・・。
 
 
 自分のこととして、冷静に考えてみると、
 
 ちょっと、思い当たることが、
 
 先日、わけあって自分と知人のスマホを買い替えることになり、街のスマホショップに〃別々のタイミング〃で自分は「乗り換え」、知人は「新規」で購入しました。
 
 どちらも、店員との相談、そして契約手続きで2時間以上冷房の効いた店内で商談~契約を完了し、即日真新しいスマートフォンを手にしました・・・。
 
 この一連のやりとりを整理してみると
 
 私は数年前からスマホを使ってますが、使いこなしたPCと違って、スマホの小さな画面では調べものも苦痛で、通信手段としてしか使いません。
 PCを組み立てていた頃は部品の性能と単価までこだわってましたが、〃一体成型〃のスマホはそんな余地はなく、そもそも売買方法、契約内容等々、店員の説明のまま、ともかく機種に拘らなければ〃1円スマホ〃とかで、、、
 
 これって、たぶん騙されてはいないようだ
 
 と、
 
 それで、
 
 あることを理由にガラケーも〃拒絶〃していた知人にスマホ購入を勧め・・・紹介者~購入者プレゼントなんかもあり(これは販売の手助けか?)
 
 めでたく契約完了、また一人高齢者スマホユーザーが増えました。
 
 
 これって、たぶん騙されてはいないようだ
 
 スマホ生活のはじまり、、、という対価があります。
 
 
 高齢者を狙った特殊詐欺に対価はあるでしょうか?
 
 「あるわけないだろっ!!、犯罪だぞ、人を騙して」と聞こえてきます。
 
 詐欺罪までなら、、、、傷害・殺人
 
 
 思えば、帝國日本政府は、さんざん戦争で人を切傷し、殺人では310万人
 そして戦後は戦時国債発行の詐欺罪帳消しの預金封鎖でごまかし、
 
 殺人罪では戦争責任で28名の責任者が訴追され、内7名が死刑になりましたが、生存者の多くがその後政界にも復帰し、その子孫が今も政治家をやってるみたいな・・・
 
 話が混線しましたが、
 
 要するに、「対価」があれば、もちろん生命にも暮らしにも意味があって、人々は小さな幸せを感じられます。
 必死に蓄えた金融資産が、その個人、そして社会全体に豊かな還元をもたらせ、その対価に意味がありますが、
 
 今の政治は、国民全体・すべての個々の家計を成り立たせず、なにやら一部の「特殊利益者」を擁護することに傾き、高齢化と少子化をいたずらに加速させてます。
 
 なので、「超家計」はますます守りに入り、「貧困家計」は戦前戦後の社会同様に、生命を脅かされ、僅かな資金さえも奪われる・・・
 
 これ、すべて国家(政府)の犯罪としかいえません。
 
 なので、安心できる〃良心的な対価〃が分配されなければ、孤独な老後に眠らされた貯蓄は動かず、〃あたかも対価〃と思える出来事、事件があれば、そこにドッと資金が動いてしまいます。
 
 特殊詐欺への最良の解決策は、資金を貯め込まなくても安心な生涯を過ごせる社会を充実させることしかありません。
 
 高齢社会が″安全→安心〃がただの常套句に終わらないように、個人が金銭に依拠しないで過ごせる本当の福祉社会を設計しなければなりません。

登る人

 この夏、気になったことが・・・。
 
 比較的高齢の方々が、標高の高い有名な山々で遭難する事故が、、、毎日のように報道されてます。
 
 北アルプス穂高槍ヶ岳、後立山鹿島槍ヶ岳などなど、3000m前後の稜線付近の岩稜からの滑落が多く、命を落とされた方々も・・・。
 
 30年ほど前に高校登山部顧問をしていた時代があり、いろいろな山に登りました。元気な高校生と一緒で自分も張り切っていました。

 山との出会いは中学生の時の遠足で登った奥武蔵の伊豆ヶ岳登山がきっかけで、以後秩父周辺の低山中心に一人で出かけたりしてましたが、大人になって登山部の顧問になるとは思ってませんでした。
 
 実際、それが仕事のひとつになってみると、それまでの勝手気ままな登山は許されず、安全が第一で、同時にそれなりの充実した経験も大事でした。
 
 この夏遭難のあった山域にも生徒を連れて行ってましたが、、、
 
 現在の自分と同年代の方々も事故に遭われていて、どうしてと思ってしまいます。

 
 というのも、今の自分には、かつて仕事で登っていたような山に登るのは、まず無理です。
 
 体力の問題が一つ
 
 そもそも事故が起こるような現場まで行くのが、行けたとしても、自分にも人にも迷惑かけそうです。
 
 ものの考え方が二つ目
 
 基本、人間の生活圏ではない奥深い、高峻な自然界に入りむことの、そんな行動への自己否定
 
 仕事でもなく、誰のためでもなく、所詮自己満足の行動でしかない本質的問題
 
 事故に遭われた方々には辛いことですが、この手の遭難には多くの人間が救助活動として関わっていて、垂直に近い岸壁に接近してホバリングするヘリなどは、それこそ死と隣り合わせの仕事になります。
 
 だから、今の自分には登れない・・・。
 
 でも
 
 多分ガンバレば登れます。
 
 どこかにかつて経験した時間への郷愁のようなものがあって、気持ちの中に残るものもあります。
 
 しかし、〃もう終わっているのだ〃
 
 と、自分を叱る声も聞こえます。
 
 
 短い人間の一生の中にも時代変化はあります。
 
 30年前は、こんなにも多い高齢者遭難はありませんでした。
 
 交通の発達、登山道整備、充実した山小屋、何よりもGPSや、遭難救助体制の進化等々
 
 さらにYoutubeなどに溢れる登山コンテンツの誘惑
 
 条件変化が最大要因なんだと思いますが、
 
 それでも、人生終盤期の過ごし方として選択するには困難度の高い山は相当の覚悟が必要と自覚するべきなんだと思います。
 
 ・・・相当な覚悟で遭難してしまう・・・
 
 いちど、そんな自分の存在を疑ってみてください。