実現不可能という意味と同じだろう・・・
と思われます。それは肯定的意味で。
普遍的とはまさに〃的〃であって、普遍そのものではないので
人間のことで考えると
どうしてこんなに沢山の個性がぶつかりあっているのでしょうか?
視野を少し広くすると、
動植物の世界は、どうしてこんなにも多種多様なのでしょうか?
さらに超越して考えると、
どうして、私たちは宇宙の究極を見つけられないのでしょうか?
普遍的の意味の究極は真理(truth)のことです。
誰が見ても、考えても、それを「否定できない答え」のような
つまり、物差しでははかれないもの
抽象的に想像してみれば、何となくイメージは感じられます
「差別のない世界」とか
肉体も精神も「苦しみのない世界」とか
「欲望と節制」の区別のない世界とか
具体的に芸術で表現すると、ジョンレノンの「イマジン」の世界とかhttps://www.youtube.com/watch?v=wARpk54fv8U
逆説的に表現すると、ピカソの「ゲルニカ」とか
丸木さんの「原爆の図」とか
こんなことを考えるのはみんな嫌いですね
嫌いという感情そのものが、「普遍性」の阻害要因ですが
ただし、このことは、人間が地球上に登場する遥か以前からあったことで、
「普遍性を阻害する要素」に自然界は満ち満ちていた・・・
どうやら、それこそがこの自然界の基本原理であると
それは理解できます
普遍性が実現した形になってしまうと、もう変化の必要性が消滅し
そこから先は「無」となると、、、想像できます。
だから人に意識があるかぎり、普遍性は手に入りません
そして苦しみます
やがて意識の限界がきます
その限界の先はなんでしょうか
「死」であるとしか想像できません
「普遍性」を得るために、どこまでも「普遍的でありたい」と生きる人間に究極性はありません、手に入らないのですから
なので、「あきらめた時」・・・死が待っています。
能動的であれ受動(必然)的であれ、死には普遍性が隠れているような感じがします。
全てが死にますから、人間に限らず、あらゆる物質が
何となく、答えがみつかりそうです
この「普遍」を見たくないがために、人は「様々な衣」を身に覆いかぶせて意識を消し去ろうと試行錯誤や逃避を繰り返し、その″可愛さ〃と″哀れさ〃は小さな芸術や宗教をたくさん生み出してきましたが、
どうやら、そろそろ「見たくない本質」を真正面から見つめなければならない時が、キリスト教歴の21世紀の現在に訪れているかと・・・この今の現実
そこには、この「無限の大自然の決まりごと」があるような感じもします。
現在問題になっている気候変動なども、人間存在が原因とか、長い自然サイクルの繰り返す出来事とか、どうやらそんな議論の中にも「普遍性の迷走」が見え隠れしていて、
「どっちが原因だって、仕方ないだろ!」
確かに、これは避けがたい現実だとすれば、戦争も自然災害も区別はありません、、、
そして、たった一つ、人間に可能なことがあるとすれば、
それでも「普遍」的であろうと、努力する意思を持つということです・・・