びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

不可知論と"閉じた世界"

 難しそうなテーマですが、ごく日常の話です。
 
 「不可知論」の意味は定まってないようです。歴史も長くギリシャ時代(世界宗教が登場する以前から)にすでにあり、「無神論」とか「唯物論」とか、派生して社会主義共産主義、"所詮人のこころはみえない"、、、とか、、、
 
 巨大な宇宙の真実を知ろうと、極々微小な究極物質の追究に莫大な税金が投入されているので、一般庶民ももっと興味を持っていいかも知れません。
 
 思えば、

 私たちは"教育のお陰"で、おおよそ、事の実体が分かっています・・・。

 
 私流の言葉で解釈すれば、物質世界(素材)と"意味の世界"(閉じられた有限性)の二元論であろうかと思います。
 
 自然界を見渡すと、人間も含めて無限とも思える程の物質に囲まれています。科学者達はそれぞれの分野で日々そのサンプリングに邁進し、"名前"も次々と増えて行きます。
 

 有機物であれ無機物であれ自然界に存在するものは「組成」することで様々な物質に化けて(化合)"見た目の存在"になりますが、この状態は「組み立てられて完成し、一応閉じた状態」だと理解できます。

 
「素材が「設計?」によって構成体として完成させられ、簡単には直しようがない状態」
 
 
 あらゆるレベルの物質が"このような状態"にあります。
 
 
 でも、それは不変ではなく、分解・破壊とか、生命ならば死とかによって崩されてしまい・・・"素材に還元されます"
 
 科学はその「究極の素材」探しに懸命です。
 
 
 ただし、それを見つけて認識することは人間には出来ないというのが「不可知論」なのではないかと考えます。
 
 仕方なく、"そこ"に神とか科学的真理とかの暫定的な装置を作ることでごまかして、答えを先延ばししてきたのが文明であるわけです。

 
 こんなことに拘るのは人間だけなのでしょうか?
 
 人も他の生物と同様に死すれば分解され還元されます。その先のことは分かりません=不可知論
 
 
 であるならば、"それ以外のことは知り得ない"という「認知論」を納得すれば終わり・・・
 
「人間は、自分流の主観的な意味付けを通して物事を把握する」
 
 だそうです。

 
 実はお釈迦様は神について肯定も否定もしていなかったそうですし、キリスト様も自分を拝めとは言ってなかったようです。
 
 世界中の人々が信じてやまない存在がそう言ってたのだから、私たちなどは「不可知」で当然です。そして、この世界の外は見えないのだから、人の生も「組成という閉じた世界」に閉じ込められているという理解こそが正解のように思えます。
 
 そして、組成は何をしても、常に分解される運命にあるということです。
 
 それまでの間、私たち人間は、その「何をしても」の堂々巡りをしている存在なのでしょう。