この夏、気になったことが・・・。
比較的高齢の方々が、標高の高い有名な山々で遭難する事故が、、、毎日のように報道されてます。
北アルプスの穂高や槍ヶ岳、後立山の鹿島槍ヶ岳などなど、3000m前後の稜線付近の岩稜からの滑落が多く、命を落とされた方々も・・・。
30年ほど前に高校登山部顧問をしていた時代があり、いろいろな山に登りました。元気な高校生と一緒で自分も張り切っていました。
山との出会いは中学生の時の遠足で登った奥武蔵の伊豆ヶ岳登山がきっかけで、以後秩父周辺の低山中心に一人で出かけたりしてましたが、大人になって登山部の顧問になるとは思ってませんでした。
実際、それが仕事のひとつになってみると、それまでの勝手気ままな登山は許されず、安全が第一で、同時にそれなりの充実した経験も大事でした。
この夏遭難のあった山域にも生徒を連れて行ってましたが、、、
現在の自分と同年代の方々も事故に遭われていて、どうしてと思ってしまいます。
というのも、今の自分には、かつて仕事で登っていたような山に登るのは、まず無理です。
体力の問題が一つ
そもそも事故が起こるような現場まで行くのが、行けたとしても、自分にも人にも迷惑かけそうです。
ものの考え方が二つ目
基本、人間の生活圏ではない奥深い、高峻な自然界に入りむことの、そんな行動への自己否定
仕事でもなく、誰のためでもなく、所詮自己満足の行動でしかない本質的問題
事故に遭われた方々には辛いことですが、この手の遭難には多くの人間が救助活動として関わっていて、垂直に近い岸壁に接近してホバリングするヘリなどは、それこそ死と隣り合わせの仕事になります。
だから、今の自分には登れない・・・。
でも
多分ガンバレば登れます。
どこかにかつて経験した時間への郷愁のようなものがあって、気持ちの中に残るものもあります。
しかし、〃もう終わっているのだ〃
と、自分を叱る声も聞こえます。
短い人間の一生の中にも時代変化はあります。
30年前は、こんなにも多い高齢者遭難はありませんでした。
交通の発達、登山道整備、充実した山小屋、何よりもGPSや、遭難救助体制の進化等々
さらにYoutubeなどに溢れる登山コンテンツの誘惑
条件変化が最大要因なんだと思いますが、
それでも、人生終盤期の過ごし方として選択するには困難度の高い山は相当の覚悟が必要と自覚するべきなんだと思います。
・・・相当な覚悟で遭難してしまう・・・
いちど、そんな自分の存在を疑ってみてください。