びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

衰えと向き合う

 高齢者の仲間入りをして数年。
 
 若い頃には分からなかったことが訪れてます。
 
 健診結果でも要医療などと書かれたり 

 身近につぎつぎと病にたたかう人も増え、、、
 
 時間の長短はあるものの、人はみな老いて、やがて去っていくという、若い時分にはあまり感覚になかった実感があります。
 
 定年退職直後は、やっとおとずれた自由に開放感を心身に浴びて、少なくともこの先20年くらいの時間へのなんとなく嬉しい感情がありました。
 
 が、
 
 それから7年、
 
 コロナ、災害、戦争、政治腐敗、不安定化する経済・・・
 
 根本的な解決どころか、ごまかしも効かない追いつめられる人類世界
 
 そして、その一員である小さな自分という存在
 
 不安要素があまりに漠然とした感覚と感情であぶられるので、具体的な災厄に追いつめられていなくても、とうてい明るい気持ちにはなれず・・・
 
 ただし、
 
 この半世紀、
 
 生まれ育ち、学び、働き、家族を養い、社会の成長過程を支えてきた世代は、
 
 現在、この高齢期を迎え、コツコツと蓄えたその総額2000兆円を超え、それらは社会の肥やしとして流動していて、
 
 なので高齢者は何も恥じることなく、残りの時間を楽しむ〃権利〃があって良いと思う・・・。
 
 残念なことに、質の悪い政治屋たちが、この蓄えを私利私欲と理解に苦しむ邪悪で危険な用途につぎ込んだこと、働く喜びを感じる職場や学校、家庭を苦渋の場所に変質させたこと、
 
 生まれた時から貧しさが本質的になってしまった人生を若者に与えていること、
 
 
 一方!
 
 IT AI スマホ
 
 年代関係なく手のひらに世界が乗る時代の今
 
 〃世界を知ることが出来る″
 
 良くも悪くも
 
 だが、知りえたことと行動は必ずしも一致はしない
 
 80億を超える人類が、たった数人の独裁者に振り回される現実を肯定する人々がどれ程いるのでしょうか?
 
 知っているのに、動けない、解決できない、
 
 そして惨い人殺しが終わらない
 
 
 衰えるとは、肉体の衰えのこと
 
 骨や筋肉、器官、感覚、、、
 
 若いいのちは、〃求められる社会的要請〃にその能力を発揮できます
 
 やがて、自然と衰えがやってきて、その要請に応えられなくなります
 
 社会的引退の時が来ます
 
 そして、何が残るか
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 人間にとって、本当は何が大切なのか?
 
 この疑問に、″行動によって回答する〃ことが、唯一、残った時間の価値であるのだろうと、しみじみ感じます。

日本人のほほえみ

 不思議 神秘的・・・礼儀正しく親切・・・
 
 明治維新以来150年、来日する外国人が戸惑いとともに、それを好意的に解釈する向きもあるようで、
 
 ためしに「日本人のほほえみ」で検索してみると、けっこう沢山の記事がでてきます。
 
 ~ああ、やっぱり、気になる人は多いのだな~
 
 ただし、物事には必ず表裏があるので、
 
 つらく悲しいのに 理不尽にもガマン ほほえんでごまかす 
 
 むしろ近頃、この「日本人のほほえみ」のデメリットの方が、腹立たしく感じることも・・・
 
 しかも、「このことの反動」が増々顕著になってきていることの心配も
 
 過酷な労働条件・低賃金、様々なストレス、いじめ・・・、
 
 なのに、「は~っ」とためいきまじりの、、、苦笑い
 

 それぞれの事件、事故が身近な環境で起きていて、問題の本質が社会全体にあるのに、加害者も被害者もごく狭い空間の中でもがき苦しみ、破綻し、
 
 それでも、ほほえむ
 
 これでは、単に笑ってごまかすのと同じ
 
 なんの解決にもなりません
 
 
 そこで、
 
 声をあげる!
 
 どうなるか
 
 とてもわかりやすい反応がかえってきます。
 
 「ああ、あの人ね・・・」と、
 
 全体の〃雰囲気〃に対して、異なった要素を発する存在に対しては、これはある種「個性」に可能性を認める〃欧米社会〃と異なり、「ことなかれ」がスタンダードな日本社会では、
 
 個性=異分子
 
 人とと違いの、人とはその他大勢のことですが、その人と異なる存在は差別の対象になります・・・
 
 欧米社会にも激しい差別があります。文化的、民族的、宗教的差別も顕著で戦争にもなりますが、一方劣等感から新しい文化が生まれるような、個人個人の能力は発揮しやすい世界でもあります。
 
 残念ながら、「出る杭は打たれる」日本社会は、破壊的な素質でもなければ個の発現は難しい環境です。
 
 結果として、環境になじめない個は「発達障害」という括りにされて、それはそれで才能が発揮されれば〃商品価値〃があったりして尊重されたりしますが、多くは前述のとおりの辛い境遇にさらされます・・・。
 
 このことは、一人が叫んでも、何も変わらないだろうと思いますが、今、世代交代もすすみ、末路的結果として、少子化人口減少、才能の流出みたいなことで、だんだん小さくなって、今後100年くらい人類が存在できるとして、やがてなんか違う世界が出現するのだろうと想像できます。

AIは役に立つか

 根本的な問題についてのことです。
 
 ここ数年、考えの整理がつかないことだらけです。
 
 インターネットが〃人体の一部〃になったことで、世界中の情報、なかでも知らない個人の発信するものも手に入ることになって、、、、
 
 おそらく、誰でも、根本的な問題へのアクセスが可能になっているはずです。
 
 昨日、京都アニメで36人の人命を放火によって奪った被告に死刑が宣告されました。この奪われた人命の数は最悪なもので、被告の罪は極刑を免れませんでした。
 当然の判決という状況の中で、本日、担当弁護士は判決を不服として控訴すると発表しました。控訴理由は、事件発生時の被告の精神状態からは刑事責任能力は問えないという趣旨のようです・・・。
 
 普通に考えて、被告本人の思惑はともかく、一度にこれだけの人を殺してしまう精神状態というのは、どんなものなか?
 
 ただしく説明できる人はいるのでしょうか?
 
 
 ロシアによるウクライナへの侵略戦争が2年になります。仕掛け人はプーチンという怪物のような人間です。この男の指示によって殺された一般市民の数は36人どころではありません。世界中から非難を受けて、様々な制裁と同時に〃被害者〃であるウクライナへの支援が続きます。世界の勢力地図も変わりつつあります。
 こんな重罪人を逮捕も裁判もできずに、人間達は手をこまねいています。
 恐らく、プーチンに家族を殺された人々は、京アニで大切な人を失った人々と同様の悲しみと怒り、、、そして犯人への憎しみを永久に持ち続けることになります・・・。
 
 そして、世界中で同じような類の狂人による殺戮と人の不幸が繰り広げられています・・・。
 
 日本は80年近く憲法の下で平和国家を経営してきました。今回のウクライナ支援でも直接的武器供与をしていません。敵味方関係なく武器による殺戮は認めないことを国家として憲法で契約しています。

 実は、死刑判決においても、「殺人は最悪の人権否定」と考えれば、死刑は憲法違反の可能性があります。
 
 一点、私たち、私自身も、犯人被告に対して感情的に許しがたい気持ちを持っているとしても、犯人を殺す権利はなく、憲法を頂点としたルールに従う義務があります。私たちは法治国家に生かされています。なので、今日のニュースについて、弁護士を批判することはできません。
 
 もし自分の身にこんなことが起きたら、法などに従わず「仇討ち」を企むかも知れません。今回の事件の犠牲者家族の中でも、そんな思いに駆られている方もいるかも知れません・・・。
 
 おそらく、ウクライナでも数万の人々の魂の怒りが天を覆っていると想像できます。
 
 人類は、太古の昔から、この「魂の不幸」を本能に埋め込まれた生命として、終わらない苦しみとたたかいながら、快楽と不幸の間に漂ってきました。
 
 私は思います。
 
 人間が感知し獲得したありとあらゆる情報を、人間が開発した巨大な記憶装置に放り込み、ありとあらゆる条件分岐を瞬時の速さで判断し回答を出せる今、、、
 
 だけど、その出せる答えが、自然界が人間に埋め込んだのこの悲しい本質を〃浄化〃できるとはとても思えません!
 
 唯一、これは答えかもしれないのは、、、
 
 人工知能が人間の本質を消し去ろうと回答し、それを動作機械に命じた時、それは人類の存在否定を導き、、、存在を消すことが回答
 
 果たして、人類はそんなAIを作り出すかも知れません。手段はもう実現していますから、AIに目的実行の権限を与えれば・・可能です

 
 昔からのSFが実現してきている現実もありますし・・・。

道具のいのち

 物事に変化をうみだす
 
 それはあらゆる出来事共通の物語です
 
 人のいのちもそのひとつ
 
 
 子どもの頃から道具が好きで、出来上がる喜びよりも道具と過ごす時間の方が楽しく、それは今でも変わりません。
 
 この歳になって、
 
 考えてみると、人生も完結に意味があるのではなくて、道具である自分のいのちの足跡に意味があって、
 
 使われなくなった道具が隅に置かれるように、
 
 使われなくなっても、それが役割を果たした数々の思い出とともに、
 
 思いがいつまでもそそがれる・・・。
 
 
 道具は手段と思っていた頃がありました。
 
 目的達成のための手段
 
 手段であってはならず、目的的に生きよ!
 
 完全な善であることが目的である、最高の善を求めよ
 
 みたいな
 
 「教育の仕事」をしていた頃は、真面目にその思考が自分を占領していたように思えます。
 
 それが、間違っていたとは思いませんが
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 2024年
 
 この時代の実相を目の当たりにして、
 
 自然界の中に存在している″ひとつ〃として、
 
 それは、無いものを求める、「流動」の錯覚なのだと感じています。
 
 私たちは道具でしかありません
 
 道具を扱うものには目的性があるように錯覚しますが、実際は道具であることの意味がすべてで、
 
 目的などという言葉は、存在しないものを夢想するための錯覚なのです。
 
 今、
 
 様々な「不幸」を目の当たりにして、その感情がなんであるのかを想像すると、
 
 何かの目的が失われた悲しみではなくて、道具として数々のことを生かしてきたものたちの思い出が、失われることなく、むしろ道具への崇敬な感情さえも、大げさな気持ちにまで昇ってしまうような・・・
 
 子どもの頃から道具が好きだった理由も、今、理解できるのは、自分の周囲にあった道具とおなじく、道具である自分自身もそこで肯定できる存在であったのかということ
 
 こんなふうに思えること自体が、道具のいのちであるのだということなのでしょう。

記憶の必要性

 老齢期を迎え、記憶の衰えを自覚します。
  
 人の名前とか、地名とか、歴史的出来事、さっき話したこととか、ちょっと置いた物の場所など、、、
  
  
 個人差はありますが、多くの方々が同様に自覚してるようです。
 
 記憶とかの情報を保管するのは脳だと思いますが、脳は肉体の器官の中で、全身をコントロールする代えのきかない重要な部分であるので、データ保管装置が破損するとコンピュータが作動しないように、脳も〃経年劣化〃すると、上記のような症状が出る・・・、
 
 と、考えると、情報テクノロジーの時代、この劣化を補う方法はないのか?
 
 現在、大量のデータを、個人のPCから離れて外部ストレージに集積保管するクラウド技術や、自由に情報を世界に発信できるSNS、そして200gほどの手のひらサイズの道具でそれらの情報の出し入れが可能になって
 
 実際、人の名前が出てこなくなってしまって、家族で「名前何だっけ」などと、″思い出しくらべ〃しますが、なかなか出てこなくて、意地になって思い出せそうになって、アッとふいに思い出したり、そんな滑稽な日々の中で、
 
 「確かあのドラマに出てたね」
 
 の〃関連事項〃への検索で、瞬時に名前に行き着きます。
 
 これは、思い出したわけではないので、「記憶の回復」とはいえないかも知れませんが、少し前にはなかったツールを使って、その情報を取り出すことが可能となり、
 
 ・・・目的は達成・・・されます
 
 肉体的衰えは、食生活や運動でサポートする必要がありますが、人間として精神世界に生きていくために必要な記憶は、情報技術の驚異的発達によって、保護・保管されているので、
 
 今では一つの情報に行き着くための通り道がいくつもあるとも思えます。
 
 
 ジジイの話になってしまいましたが、このことは、むしろ子ども達の教育の方法でも考えさせる部分があります。
 
 成長の途中で、幾度も試されてきた学校のテストや進学入試の殆どは暗記力を試されるばかりで、不随する面接試験なども志望動機や過去の経歴を尋ねられるような「結果確認的」なことばかりで、
 
 発想力、創造性、検索力、構成力、企画力 等々
 
 未知数なことを確認し、その可能性を見出せるような、
 
 単純にいって″個性を透過〃できるような、そのような教育は行われていない、ということです。
 
 暗記力、記憶力を試すような人間選抜はもうやめましょう!
 
 〃そんな記憶力〃は、もうあまり役に立ちません。せいぜい趣味のようないろいろ覚えて楽しむ世界の話です。
 
 情報テクノロジーが今後も発展し続けると保障されるならば、脳に負荷をかける、ストレスのたまる単純暗記は少し横に置いて、直観的に感じる現象への興味を、さらにつながる事柄に導く自由な検索力を育むことで、さらに新しく、普遍的な解決策に近づく発見への導きを生み出すような、そんな予感を感じます。

 

希望と行動

 年明け早々の大事件に驚きました。
 
 ネットやテレビなどから次々と情報が入ってきて、事態の深刻さや起こりえないような事が起こる日常の落とし穴を実感させられます。
 
 ここ数年、人間の理不尽さが引き起こす不幸な悲劇や許しがたい暴挙など見せつけられ、やり場のない気持ちを抱える人が多く存在しています。
 
 一方で、そのような事態、事件に遭遇して、
 
 「何とかしなければ」
 
 と、現実に立ち向かう人々の姿もはっきりと認識できる映像も流されてます・・・。
 
 
 以前から感じてますが、この日本社会でお世話になる様々な方々の、主にその仕事ぶりには、正直、″感謝〃を感じる場面が増えてます。
 
 そして、その人々が必ずしも〃感謝されたくて〃やっている訳ではないと思える場面も多々あります。
 
 これはどういうことだろうと、考えます・・・。
 
 
 家族どうしの暮らしの中で、よく
 
 「おいおい、誰のために、やってると思ってんだ!」
 
 ということがありますが、
 
 「ああ、言っちゃいけませんね」と後悔するのですが、世の中では、基本他人にそんなセリフは吐きません。
 
 私たちは、人間の行動に「感謝」はしますが、「理屈」には感謝しません。
 
 
 本当は辛くて、腹も立つ、それでも我慢してがんばる!!
 
 
 実際問題、そんな正直な「思い」だってあるでしょう。
 
 
 答えは簡単です、「行動には価値がある」
 
 だから感謝される。
 
 当然に、価値には対価がなければ「社会という自然界」では生存できませんから経済活動が作動してます。経済というマシンが〃正しいプログラム〃で動いているはずです。
 
 
 「正しく動く」
 
 正しく動くからみんな信じている
 
 そして、その原動力が
 
 「希望」であることは間違いありません。
 
 人が行動に感謝するのは、そこに希望が見えるからです。
 

災害保険 その2

 12/15の記事の続編です。
 
 この20日間の話になります。諸事忙しい折、少しストレスになりましたが、勉強にはなりました。
 
 最初の保障申請については、鑑定扱いとなり、鑑定会社の結論は、被害箇所の明瞭な痕跡が見当たらないということで不認定の通知が送付され、

 エッ! と驚き、、、気持ちを切り替え
 
 被害箇所に無数のひょう痕があり、建物の経年劣化はあるものの、今回の被害が降雹にあることには確信があったので、細部の穴のあいた画像を添付した追加資料を送付し、再認定を依頼しました・・・。
 
 早い対応でした・・・
 
 経年劣化による、該当箇所の〃脆弱性〃を再度指摘されましたが、実際に金属板に穴があいた画像が決め手だと思うのですが、雹害認定がされました。
 
「銅製の板金箇所に、長い年月、徐々に瓦の釉薬が溶け出す水流によって金属表面が浸食されて劣化して破損することがあります。」

 が、
 
 今回の件は、ひょうが打ち付けたことによる穿孔であると災害認定する旨の連絡を頂きました。
 
 という訳で、自然界から受ける人工物の劣化現象のことや、災害保険の申請から災害鑑定~保険認定・不認定の手続き等々、この歳になってはじめての勉強となりました。
 
 いずれも、対応された方々の紳士的態度には救われて、こういうことが成り立っている日本社会はまだまだ崩壊してないなと、少し大げさな気持ちと安堵感を得ました・・・。