物事に変化をうみだす
それはあらゆる出来事共通の物語です
人のいのちもそのひとつ
子どもの頃から道具が好きで、出来上がる喜びよりも道具と過ごす時間の方が楽しく、それは今でも変わりません。
この歳になって、
考えてみると、人生も完結に意味があるのではなくて、道具である自分のいのちの足跡に意味があって、
使われなくなった道具が隅に置かれるように、
使われなくなっても、それが役割を果たした数々の思い出とともに、
思いがいつまでもそそがれる・・・。
道具は手段と思っていた頃がありました。
目的達成のための手段
手段であってはならず、目的的に生きよ!
完全な善であることが目的である、最高の善を求めよ
みたいな
「教育の仕事」をしていた頃は、真面目にその思考が自分を占領していたように思えます。
それが、間違っていたとは思いませんが
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2024年
この時代の実相を目の当たりにして、
自然界の中に存在している″ひとつ〃として、
それは、無いものを求める、「流動」の錯覚なのだと感じています。
私たちは道具でしかありません
道具を扱うものには目的性があるように錯覚しますが、実際は道具であることの意味がすべてで、
目的などという言葉は、存在しないものを夢想するための錯覚なのです。
今、
様々な「不幸」を目の当たりにして、その感情がなんであるのかを想像すると、
何かの目的が失われた悲しみではなくて、道具として数々のことを生かしてきたものたちの思い出が、失われることなく、むしろ道具への崇敬な感情さえも、大げさな気持ちにまで昇ってしまうような・・・
子どもの頃から道具が好きだった理由も、今、理解できるのは、自分の周囲にあった道具とおなじく、道具である自分自身もそこで肯定できる存在であったのかということ
こんなふうに思えること自体が、道具のいのちであるのだということなのでしょう。