仁科正二校長は「人数が多かったので活動を停止した。妥当な判断だったと思う」
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012030390121504.html
だそうです。
こういう校長の評価は分かれます。
実働部隊は生徒指導部とか、割と強硬的に生徒管理したがる人たち。
ニュースになってしまうと校長名が出てしまう。
“これは私の指示です”と言える校長は現場では好かれます。
世間も仕方ないかと、問題にしにくくなります。
もし、これが一人の教師が勝手にやったことだと、生徒や保護者がクレーマーに変身して、ニュースも「行き過ぎ教師」と反応。
校長は遺憾の意を表明・・・。
学校の秩序を保つことがどれだけ大変であるかは現場にいれば分かりますが、だいたいこの10年、妥協しない管理的指導がスタンダードになって来ていて、教員集団も「組織的取り組み」にならされてきました。
教師たちの団結が違う方向に向いたということです。
教員の自由度がなくなったことは、生徒達の自由度に反映されます。
そして、“季節の風物詩”にもこういうことが起こる訳です。
バブル前後から失われた20年、この四半世紀の学校の変化を見てきた立場から感じることは・・・、
たとえ、時代状況に大きな変化が起きたとしても、子ども達の生活世界に許されるべき普遍的な営みがあって、そこには成長する過程において、実に必要な感情の移ろいというものがあるだろう、この大バカなおとな達よっ、、、!
ということです。
ITの世紀が進み、若者は無味無臭の電波世界を漂っていて、その技術は、必ず有益な方向性をもたらすと思える一方、向きあった人間関係を育む学校空間の意味は、あらためてその重要性を増していて、それ故に、その環境がどのような空気に包まれているべきかは、普通に考えれば、容易に考えられると思います。