びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

佐村河内という人のこと

 芸術とは何か、と考えさせられました。


 例えば、多くの人々が感動する絵画が“公開された”として、然るに、その作者の名声は上がらない、、、
 
 
 ということはあまりないでしょう。
 
 
 作品評価とは別のところで、作者の人間像にも衆目を集めることでしょう。
 
 
 ところが後日、本当の作者は別の人間であったということです。
 
 
 この事態に、ふたつのことを考えました。
 
 
 このような事態によって、その作品の価値は失われるのかということ。
 
 
 そして、人の目に見えるように“公開された”、背後のいきさつには何か意味があるのか?
 
 
 と、いうことです。
 
 
 人がこころを動かすかどうかは、その作品の力に依存します。
 
 
 私も下手ながら物作りが好きですが、出来上がるまでのこだわりは、完成とともに変質し、作品自体は自分の外側に出てしまいます。
 
 
 作品自体がその後の自分に何かをもたらすかどうかは、商品的な意味以外では、自分の本質には大きな意味はありません。
 
 
 と、考えれば、
 
 
 作者の外側に出た作品自体の価値は、見る物の本質にゆだねられるだけのことになります。
 
 
 それが良いと思った人が、その価値を自分の糧にするということに差し挟む理屈は何もありません。
 
  
 
 そして、問題となっている後者のこと・・・。
 
 
 ・・・“公開された”、背後のいきさつ・・・
 
 
 埋もれた才能が、このような形で出てくること、そのことについての、考えるべき普遍的テーマがあるように思います。
 
 
 「騙されなければ、その作品は世に出なかった」
 
 
 多くの人が涙を流すことをおしまなかったその作品が、人を欺くような方法でなければ世に出せなかった・・・。
 
 
 実は、この権威主義的な世の中では、
 
 
 その権威からは勿論のこと、その権威を嫌う精神性からも“才能”が発掘されます。
 
 
 しかし、その“どちらにも属さない才能”は、どこから出てくるのでしょうか?
 
 
 その方法が正当な手段であるのか、不正直な手段であるのか、権威を守っている現行法に抵触する手段であるのか、どうなのか、、、
 
 
 しかし、
 
 
 そもそも、「才能の発掘」=「利益」と定義してしまえば、
 
 
 今回の出来事も、それほど驚くことではないのではないかと思うわけです。
 
 
 水面下では同じような性質のことは幾らでも起きていると想像できますから。