びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

教育の限界

 大切に思う人が急峻な崖下に落ちて、助けを求めていたらどうするでしょうか?

 
 大きな声を出して、相手の無事を確認する。
 
 呼びかけ続けて、頑張れと励ます。
 
 そして丈夫なロープを見つけて下ろし、縛り方、つかまり方を教えて引き上げを試みる。
 
 
 可能な″手段″を講じて、そして相手がそれに応えられるように言葉で説明できれば助け上げることは可能でしょう・・・。
 
 
 これは喩話です。
 
 
 では、相手がどうしてもロープにつかまれなかったら・・・
 
 
 見殺しでしょうか? そして残念な結果に終わってしまったらどう考えるでしょうか?
 
 
 人間は他人事の生き物です。なので「救出の方法論」を巡って、みぎひだりの議論をして、殆ど推論的な回答でもってごまかします。
 
 そして、この″ごまかし″が教育の本質のように扱われて、殆どの人がそれで納得してしまいます。
 
 
 実は、こんなことは、みんな内心分かってます。

 

 ″古典的″に、無力感を解決する方法は唯一あります。
 
 崖下に自ら降りて行って、相手とともに這い上がってこられる人を探し出せばいいのです。
 
 
 教育に限らず、人命にかかわる仕事、それに関連する分野の誰もが悩む命題です。
 
 そのような自己犠牲的・自己責任的な行動が取れる人は非常に限られているからです・・・・
 
 そして″ごまかし″が正しいと思い込んで発言している人々は結局相手をさらに傷つけたり、その責任も感じなかったり、相手に限界があったと転嫁したり・・・
 
 
 必要な人手が足りず倒産してしまう企業が増えています。商品の質と量を確保できないからです。
 
 もしかして、教育に何がしか″尊厳的″なものが必要だとしたら、もう教育も倒産状態です。
 
 「人間的な人手」が足りません。
 
 それでも教育が倒産しないのは、教育に質、量とも単純な結論だけが求められるようになったからです。
 
 要求水準が下がった。もうあきらめている・・・。
 

 そして″方法論″は、別の答えをほぼシステム化しました。
 

 そもそも、崖の下に落ちないようにすればいいのです。
 
 これは、否定できません。正しい答えです。

 

 みじめな思いをする人をもう見たくありません・・・。