びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

 「新聞の時代」は終わった?

 最近、新聞の読み比べをしている。ただ、ここでは個々の新聞の比較はあまりしたくない。
 
 どの新聞も書かれている内容は大差ないだろうと思っていたので・・・、実は驚いた。同時に合点がいったこともあった。
 
 以前、ある新聞に自作校内LANの記事を載せてもらったことがあった。ある日、学校取材をうけて掲載された。「官製学校LAN」が学校になかなか普及しないので、先行して独自に工事をして、ソフトを開発して運用し始め、そして自分のサイトで公開して直の頃だった。
 
 新聞では、個人のHPを巡回して取材対象をみつけることもはじまっていたのだと思う。
 
 実は、その新聞は購読していなかった。(すみません)
 
 実は、最近になってその新聞を購読しはじめた。
 
 そして、数日読む内に、気が付いた。
 
 「そうかぁ、だからの自作校内LANが掲載されたのかぁ」
 
 自分自身に関しては自覚していなかったのだが、世の中には、政治や行政に相手にされず、時には妨害されながらも、自分の価値観で、勿論、それが有意義だと思えばこそ何かを実践している人は結構いると思う。
 
 新聞は雑誌と異なり、あからさまな体制批判や非合法な活動を面白おかしく掲載するわけには行かないだろう。
 
 しかし、
 
 政治や行政の不備、手の回らない分野などで、そのことを直接的に批判するのではなく、自分の活動で何とかしようと思っている人々が結構いる。そのような人たちを積極的に取り上げることは、新聞の重要な役割ではないだろうか。
 
 大震災後の非常時となった今は、それこそ無数のそういった活動が展開され、新聞でも紹介している。
 
 そういう非常時の展開は、実は平常時に地道に培われてきた一般市民の日常の延長にあるといえよう。
 
 この国は、そのような「良心的な国民」によって支えられてきた。彼らはそれぞれの持ち場で自分の意志と行動力でそれを実践してきた。
 
 こういう「良心の“哀れさ”」に涙し、そして憤り、その憤慨を直接的行動に移す人がいて、時に非合法とされて排除される。多くは現場にいる人々だ。 
 
 結果として、無数の無言の良心は浮かび上がることなく消されていく。
 
 報道がこの良心を黙殺しているとは思わない。が、そのリアリズムは現実変革の契機にはなっていないのも実際だと思う・・・。