びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

父権の喪失のあとに

 Kdsystem7にかまけているうちに、世の中がどんどん動いてました。
 
 
 「いじめ自殺」
 
 
 “いじめ”自体は昔からあったわけです。この話題も最近はじめて持ち上がったということではありません。
 
 
 要するに、ポイントは、学校が「いじめの温床」でありながら、このことに対して無責任、見て見ぬ振り、隠蔽主義、事なかれ・・・。
 
 
 という議論なのでしょうか。
 
 
 しかし、これも昔からという気がします。ずーっとくすぶり続けている問題の炎が、時々燃料がまかれたようにボッと燃え上がる・・・。
 
 
 テレビ番組で、ある評論家が言葉を探しながら、「透明な暴力」という言葉を使いました。
 
 
 それが今は無くなった・・・、と。
 
 
 現場に30年以上いて、その比喩がよく分かります。
 
 
 かつて、子どもたちは「強い力」を恐れていました。悪いことをする時は、ビクビクしながら、その行為への罰が自分達に返ってくることを予感しながら行動していました。そして、案の定その予感は的中し、頭にたんこぶをつくる羽目になったものでした。
 
 
 そして経験上、何がセーフで何がアウトかを自然に学びながら育つのでした。そして、そこに「ローカル・ルール」というのがあって、その不文律が子ども達自身を守っていました。
 
 
 1980年代以降、この子ども社会は変化しはじめました。ここで語るまでもないでしょう。そして、子どもたちは「法によって守られる」ようになり、打ちのめされてしまった若者は精神医学と合法薬物が守ることになりました・・・。
 
 
 そして「透明な暴力」は非合法化されました。
 
 
 “この暴力”は種も残されていない感じなので二度と自生することはないでしょう。起こるとしたら、まったく異質で、自然の摂理に反した、破壊的で残虐な暴力であると想像できます。
 
 
 人間は暴力の生物です。経済成長が、自然の摂理で自生していた暴力をことごとく枯らしてしまい、結果として人間の本能が剥き出しとなる暴力の蓋を開ける結果となりました。対症療法的にその暴力を取り締まる羽目になりました。
 
 
 いじめ、パワハラ、DV、自殺、、、そして、原発の大事故。
 
 
 このことと無関係と思われるような事柄も、実はすべて同じ理由で起きていることを知るべきでしょう。
 
 
 自然の摂理。命を守ろうとする魂の源泉は、その命を生み出した存在の「透明な暴力」なのだと、忘れていたことを思い出させてくれます。
 
 
 憲法は国家に対する平穏な抗議行動を認めています。今、命を守ろうとする数十万のおとな達が、“平穏な暴力”を行使しています。惨めに閉塞されてきたこの国の男たちが、「狂気の暴力」がはびこる異常な状況に対して叫ぶ時が近づいているのかも知れません。