ものごとの考え方について考えることがよくあります。
考えるためには、情報が必要で、それは感覚をとおして得られます。
例えば視覚。
聴覚も同じだと思うのですが、左目と右目で見ているものは同じと思いがちですが、実は左右の目で見ているものは微妙に違います。
違うことで遠近感が得られることは誰もが感覚的に理解しています。
これは、実は感覚刺激だけでなく、思考や思想、もしかしたら万物共通の原理なのかと思います。
簡単にいえば、絶対的なものは一つとして存在しておらず、全ては相対的存在であると・・・。
ところが、どういう訳か、人間は絶対的価値尺度を求めたがる。おおげさな言い方を避けて卑近で感じるのは、自分が絶対正しいというような態度を取る人がなんと多いことでしょうか。
そのような人は、自分が正しいかどうかは、それを比較するための相対的な“的”が必要であることに気が付いていません。
科学者は、事実を追究するために、実験を行います。事実が一つかどうかは理論の段階では夢想できますが、そもそもそれを証明するためには現象を相対化しなければなりません。
前にも書いたのですが、自然界には単独で存在出来るものはありません。「生かされる」という言葉は、物事の実状を表しています。
そこで思いました。
自分自身の中に“相対化思考”を築くということ。
衣食住。起床、睡眠、仕事、健康、家族、恋人、車の運転、趣味娯楽、排泄、性生活、ゴミ捨て、買い物、コミュニティ、空を見上げ空気を吸う、風の音を聞く、緑を感じる・・・。
あらゆる場面において、偏屈な一方通行とならないように、すべて“ハーフサイズ”で考える。
おそらく人間の能力では、半分を稼働させ、半分を残しておくくらいのことは可能であると思います。
というか、実際は半分程度しか稼働させていないのに、残りの半分に気が付いていないのでは。
半分しか稼働していない世界なのに、フル稼働の感覚で思い悩み、迷い、自分を苦しめています。
生物は良く出来ているもので、“修復作用”があります。これが可能なのも、物質的“予備パーツ”が準備されているからで、それが内的なものか外的なものか私には分かりませんが、残りの半分が修復のための作業スペースとなっていることは間違いないでしょう。
このハーフサイズの白紙の空間こそが、実は人間の可能性なのであります。ものごとを解決に導くのは、他者との相対化なのではなくて、まず以て自分自身の中のハーフサイズを自覚し、自分自身の思考を立体視することで、外界の本当の有様も見えてくるというものなのではないでしょうか。