びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

この先に見えるもの


 「バブル崩壊」以前の話は、もう今の時代では殆ど意味がありません。
 
 
 大雑把にいって、集団主義から個性主義に変わった、と表現すれば十分かと。
 
 
 個人の問題を集団で解決していた時代から、個人の問題は自己責任に変化したともいえますか。
 
 
 集団プレッシャーからの解放感の後に、劣化した個人思想の底知れない不安感が描写される時代になったとも。
 
 
 一方で、人権保護をカモフラージュに、精密化した官僚システムが毛細血管にまで及びつつあることで、目指していたはずの個の解放が閉塞されつつあるとも。
 
 
 つまり、このような表現のすべてが無意味になりました。
 
 
 二歩、三歩後ろから見ていた、あの猛烈な世代の破壊力が25%の余生に入ってしまって、もうこの数年。
 
 
 近所を歩いていても、無口な表情が、自分の生命維持のために肉体の更新を必死にはかっています・・・。
 
 
 今や、この重荷となってしまった時代の残映は、空虚な記憶ではなくて、生命維持のためのシステムの内で、にぶい流動物体のように淀みはじめていて、かろうじて過渡期である現在に高低差をつくって流れを維持しています。
 
 
 この流れはいつか止まります。
 
 
 思うに、結局のところ、現在もあの時代はまだ終わっていないのでした。
 
 
 最後の最後まで、ゆっくりと流れの止まるまで、この時代を形成してきた本質は、今でも時代を縛っているのです。
 
 
 “あの猛烈な破壊力”は、強力な体質を生み出した結果としての、現在の、逆に“自己免疫”に苦しむ世界を導いてしまった。
 
 
 アレルギーの特効薬は存在しません。
 
 
 逆説的には、もし科学がそれを発見した時は、その生成原理があらゆる問題解決に導かれるでしょう。
 
 
 この地球を包み込む視点でみれば、あらゆる出来事が、どう考えても人類、或いは生態系すべてが“そのポイント”に来ているようにも思えてしまう。
 
 
 これは終末観に泳ぐ弱気な精神ということではなくて、失った猛烈な破壊力を今一度甦らす、それは結局は個人の奥底からの正直な叫びが大合唱となるような、そのような時代の再来を期待せざるを得ないということなのではないでしょうか。