人生、時間ばかりが蓄積すると、消えて行ってしまうことと、逆に増々鮮明化する記憶とに分類されていきます。
前者は主食のようなもので、重要なものでありながら、日々予定されていることが予定通りに通過して行っただけで、個々が固定化せずに"包括的な時間"の中に埋もれてしまいます。家族とか職場とか、生きる現実の蓄積とため息とか、そして老いて行く自分の肉体に対する感覚などです・・・。
一方で、この時間の行き着く先を実感するようになると、不思議と蘇ってくる記憶が確実にあります。これは思い出すという感覚ではなく、フッと嗅覚であったり、味覚、音であったり、それら本来老化で衰えていく五感が記憶化されていて、同時に自分の意識の中に映像となり、色とか空気感、陽の光と影、そしてそこに登場する人間の記憶・・・。
特別な価値があるものではありません。
そういうものが、何かのスイッチ、再会とか遭遇とか・・・。
具体的に鮮明によみがえる風景
そういうものは、「思い出」と呼べるのだと思います。
何の意味があるのでしょうか?
そんなもの。
"懐古趣味"=ああ、昔はよかったよなぁ~、みたいな感慨。
"懐古主義"=前ならこうしてうまくいった、経験がものをいう。
ネット社会では結構お金になったりします。関連グッズの収集とカタログ化が出来て、新品にない感性が再生されたりします。
ただ、今日の表題は、そういうお金にはつながらない"もの"のことです。
正直は善、嘘は悪・・・。
思い出は正直ではありません。一方、嘘はたくさん思い出をつくってしまいます。
人間は後悔の塊で、それは嘘の回数づつ増えるのが普通です。
厄介なのは正直な嘘です。現代社会はこの苦しまない嘘が氾濫しています。人間性の喪失がそうさせます。
嘘つきなのに"思い出がつくれない"
善悪の定義は永遠に定まらないテーマですが、"拝金の時代の善悪"は、やり取りされる金銭の性質によって決まってしまいます。
なので、今の時代、人がその生を終えるとき、果たして「思い出の風景」の中に旅立てるのか・・・?
なにか寂しいことです。