びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

若い人たちの微熱


 これは文学の話ではありません。
 
 
 実際の微熱が何日も続き、検査しても特に異常は認められず、「これはストレスですな」みたいな話になってしまう。
 
 
 こういう症状をうったえる若者が多い・・・、という話聞きませんか?
 
 
 
 私はとてもいやな感じがしています。
 
 
 かつて、チェルノブイリ原発事故があった時、事故から5年後から放射能由来であろうと思われる病気が急増したというデータが公表されています。
 
 
 健常者でも、体の不調、だるさなどをうったえる人が増えたとか・・・。
 
 
 こういう話題は、今、歓迎されません・・・。
 
 
 しかし、“マスコミでさえ”、連日汚染水垂れ流しを報道しています。放射性物質を含む大量の水が溢れているというのに、なぜ国民はこんなに寡黙になっているのでしょうか。
 
 
 以前であれば、ほんの少量でも放射性物質が出てしまえば重大ニュースであったのですから。
 
 
 本日、「桜田義孝文部科学副大臣が5日の千葉県野田市での会合で、東京電力福島第1原発事故で生じた放射性物質を含む焼却灰の処分をめぐり「人の住めなくなった福島に置けばいいのではないか」との趣旨の発言」とのニュース。
 
 
 ・・・人が住めなくなった・・・
 
 
 狭い日本の国土に、人間の人生時計で考えれば、殆ど永久に入れなくなった土地が目の前にある。と、正面から考えなければならない。そのエリアの辺縁数十キロ内の地表は高い線量を今でも計測しています。
 
 
 埼玉に避難した双葉町の方で、埼玉で農業を再開した人がいると聞きました。
 
 
 私は、この人はスゴイ人だなと思います。
 
 
 土地が失われてもスキルは失われていない。後継者不足で休耕してしまった農地があちこちにあります。
 
 
 日本人が本気で「失われたフクシマ」を考えるのであれば、避難せざるをえなくなった、特に若い人たちに、どのような選択肢を提供できるのかを追求しなければなりません。
 
 
 
 チェルノブイリ直後、放射能の問題を深刻に考えている市民は1000人に一人だったと聞いたことがあります。
 
 
 今の日本も同じですね。
 
 
 しかし、今、日常的に、「あれっ」と、これまであまり体験しなかったようなことが起こることに敏感になるべきでしょう。
 
 
 現実には、このような表現はバカにされます。だから、誰も話題にしなくなりました。
 
 
 少なくとも、私は命を奪う自然の怖さを若い時分から随分と感じてきましたが、そのような経験が、未然のサインに敏感にならざるを得ない性格をつくってしまいました。
 
 
 人はこれを心配症と呼ぶようですが、健忘症に冒されるよりはマシじゃないかと思うのですが・・・。