びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

白衣の沈黙

 医者、科学者、
 
 のような人々のこと?。
 
 白衣は「白い作業服」と理解するのが自然なのかと思います。作業の性質上、白色であることが重要であるからなのでしょう。
 
 実は、問題は白いことの理由なのではなくて、白衣を着る業務に関係する人々一般が、「世情に関心が無さそう」に思えることなのです。
 
 学校の先生などでも白衣を着る人がいます。これもまた業務上の理由からなのだと思うのですが、やはり「世情に関心が無さそう」なのです。
 
 同じようなことは、別の事例からも観察できます。
 
 最近、学校の先生がスーツ・ネクタイ姿が増えてます。さらに首から名札までぶらさげて・・・。
 
 このことで、「世情に関心が無さそう」な人が増えています。
 
 さて、ここで考える白衣は、"ユニフォーム"だということです。ユニフォームは職業の専門性を表現しています。
 
 学校の先生がスーツを着始めたのは、職業の専門性を高め、そして自分自身の職業的アイデンティティを自他ともに意識するようになったからでしょう。これも職業の"ユニフォーム化"です。
 
 本日の表題は、いささか偏見が入り込んでいる可能性がありますが、気にしないで下さい。これは常に感じていることでありますので・・・。

 
 ダイナマイトの発明に後ろめたさを持ったノーベルや、核兵器開発を後悔したアインシュタインオッペンハイマー
 
 こういう"偉大な人々の後悔"は、その結果があまりにも甚大であったことにビビった結果の反省の結末であった訳ですが、
 
 世間一般では、
 
 もっとずっとレベル低いところで白衣を着ている人たちはどうでしょうか、
 
 殆どビビっちゃうような成果を出すところまでは行けません。
 
 せいぜい、みっともない権威主義とかトンチンカンなプライド持つ程度で、そこから先には進めません。
 
 ビビるような成果も経験もなく、それでいて白衣を脱げずにもがき続けている間は、物事の真理どころか、自分の家族の抱えている問題すら見えない人生を送ることになります。
 
 "偉大な後悔"をした人たちは「ラッセル・アインシュタイン宣言」のような形で歴史に残って、何とか人生のつじつま合わせができますが、トンチンカンな人たちには歴史に残る財産は何もありません。
 
 科学というものが、実はもの凄く危ういものであるのだという感覚が少しでもあれば、
 
 スーツを着るといい教育ができるなどと勘違いしなければ、
 
 そのとき、はじめて"沈黙の壁"を打ち破って、次なるステージに発進することが出来るのだと思います。