誤解を恐れず記す一文です。
①アメリカ合衆国憲法と日本国憲法
この両者は、理念的には同一のものです。
その前文において、前者は「Liberty」という言葉が一カ所、後者も「自由」という言葉が一回だけ。
決定的違いはLibertyの説明は殆どないのに「自由」については長い前文の中で相当具体的に説明がなされます。
自由という言葉を理解出来なくなっていた日本国民に、わざわざ前文で長々と踏まえてから各条文へと向かうしくみです。
国民の権利を執拗に解説し、一方で自由の責任を確認するための作業が前文で行われてます。
②天皇とは何か?
現憲法で天皇の存在は、国政上の折々における″スイッチ″の役割に限定されました。なので、その後国民がその姿を見るのはスイッチを入れる場面だけになりました。
以前の憲法では天皇は神なので本来姿は見えず、「現人神(あらひとがみ)」として人前には立たず、御真影(ごしんえい)と呼んだ天皇皇后の御写真が奉安殿(ほうあんでん)に隠され、人々はその施設の外から拝まされ、命まで捧げました。それにくらべ現天皇は″人間なんだ″と、誰もが知ってます。死ぬこともありません
以前の憲法では、″神″という文字が何カ所か出てきますが、現憲法では一カ所も出てきません。
③ある意味、本当の神性をまとった現天皇
故に、宗教的でないということで、現憲法は社会科学的な見地に立って作り上げられたルールであって、何か、スポーツが精神論主義で勝とうとするのが、科学スポーツに置き換わったように、″まともな現代人″であれば、現憲法の意味を正しく理解できるはずで、実は、そこに隠れたトリックがあることも、薄々感じていても不思議ではありません。
おそらく、敗戦直後の憲法改正で、現在の日本国憲法に象徴天皇制が入らず、または天皇の存在も規定されなかったとしたら、戦後日本の世相は今のものとは違ったものになったかもしれません。わるい意味で・・・。
「平成」から「令和」へ、天皇親子の、「折々出てくる言葉」に、ある種のもどかしさを感じている人は多いでしょう。
戦後、「リンゴの唄」というのが流行ったそうです。
″~リンゴは何も云わないけれど、リンゴの気持ちはよくわかる・・・~″
このリンゴとは昭和天皇のことであると、、誰がいったのか?
今年の8月15日の「敗戦記念日」の天皇の言葉の中に、
″深い反省″という言葉が再び使われ、そしてコロナ禍に立ち向かう姿勢が表明されてました。
天皇には何事も命令する権限は与えられてないのに、何故こうした場面が与えられているのか疑問に感じるのは、私だけでしょうか?
思うに、これは国民の″内的心情″にうったえているとしか思えません。
自民党の右派の人達には迷惑なことでしょうが、
つまりは、″すぐ自分の上″に歯向えない性質の日本人の、僅かながらの良心に、なにかがささやいている・・・
″ボクも弱いけど、つぶやくくらいはできるよ″
そう、理解する以外、、、、
どこかの教皇や神の代弁者?最高指導者?・・・みなさん雄弁ですね、
しかし
よほど、天皇のささやきの方が、私たちは敏感に、
だとすると、象徴天皇制として存在している意義もはじめて理解できると、、、
これは、″ある種の神性″であると、
日本人にフィットするしくみだなと、あえて肯定的な表現をしてみました・・・、
が、そうなると、天皇の後継問題はどうなるのか・・・、これはけっこう大きな問題が潜んでいるかもしれません