びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

自由民主党と立憲民主党

 選挙が近いので整理しようかと思います。
 
 政党名、名は体を表すですね。
 
 分りやすいのは、どちらも「民主党」であること。
 
 国民が国の主で、国民が自分達の指導者を選ぶ。しかも、その国民と指導者には階級的差別はありません。つまり平等社会であることも明確です。
 
 国の非常時に戒厳令というのがありますが、これは非常時に三権(立法、行政、司法)を停止して、軍隊が国家統制にあたると説明されます。現在ミャンマーで起きている事態もこれにあたるかも知れません。
 
 日本には憲法上軍隊がないので、現在起きているコロナ禍のように、国民生活に避けられない制限を加える場合は「非常事態宣言」「緊急事態宣言」を出して、国民に協力をあおいでいます。戦闘能力のある自衛隊出動についても、国民の信託を受けている内閣総理大臣に指揮命令権があります。
 
 ということで、ここまでは、どちらの政党を選択しても同じだということになります。
 

 
 さてさて、何が違う?
 
 「自由」と「立憲」の違いですね。
 
 
 説明し易いのは立憲の方です。
 
 「憲法を立てる」・・・?
 
 憲法は国家の最高法で、国の運営に必要な様々な法律を作る際の″基本ルール″のようなもので、憲法の内容に反する法律を作ることは憲法違反になるので認められません。
 
 問題は、現在の憲法が″守るに値する憲法なのか?″ということになります。
 
 つまり、立憲民主党は、「日本国憲法」は守るに値する憲法であり、それは国民がつくった民主憲法であるからこそ、未来にわたって護らなければならない尊いものだと説明します。
 
 ただし、護るに値するかどうかは、実際に読んで確かめなければなりませんが、私も含めて、日本国憲法を隅々までしっかり読んでいる人は少ないでしょう。
 
 ある意味、この政党を支持する場合は、憲法の理念とかを含めて各個人が内容を確認する必要がある・・・
 
 これは大変なことではあります。なのに、現在のこの政党の指導者達は、それを国民に分かりやすく説明する能力が乏しいなぁ、、と感じてしまうのは少し残念です。
 
 
 さて、説明しにくいのは「自由」の方です。
 
 フランスの哲学者サルトルは、
 
 「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。
 
 これはキツイですね。
 
 人は生まれた瞬間に罪人のようなもので、これはキリスト教などの「原罪」のようなものでしょうか。
 
 自由というのは、実は辛いことなのですね。
 
 この自由の刑をどう解釈するかは、それこそが自由なのです。
 
 なので「人生選択の自由」は、人を無限の可能性に連れて行きます・・・!?
 
 さぁ、どうなるでしょう?
 
 現実には、現在の日本の姿がその答えのようだといえます。
 
 実は、戦後、日本国憲法が誕生してから、長く政権の座にある自由民主党は、″立憲民主党″だったのです。
 
 憲法を読めばよく分かります。国民の生命、財産、教育、勤労、表現の自由自衛隊も軍事力でありながら憲法によって戦争を起こさない兵力とされ、国民の基本的権利や国家の安全を保障し・・・
 
 つまり、自民党憲法を守る立場で、やってきた現実があります。
 
 
 言葉は魔物です・・・。
 
 
 特にこの「自由」という言葉、
 
 「どんな生き方も自由じゃないか!」も自由です。
 
 この20年ほどでしょうか、、、
 
 「国民は自由の刑に処せられている」
 
 つまり、「責任は国民にある」
 
 だから、自分でどうにかしなさい。
 
 やっと自由民主党らしくなってきました。
 
 これこそは、市民革命を自分達で起こし、個の権利、そして責任と義務を各個人が自覚的に果たす西洋的民主社会の姿で、
「自由」という言葉を使える資格を持つ国民の姿であると理解できます。

 なので、「立憲民主」とは、憲法庇護の下の甘ったれた民主主義であり、一方の「自由民主」とは、人生を賭けて、与えられた権利を自覚し、常に努力を怠らない民主主義であると説明できます。

 
 ところで、なので、あれっ? と感じるのは・・・
 
 今の自民党を支持している人たちの多数は、立憲民主党的な自由民主党支持者なんだな、、
 
 ということです・・・、  情けない(-_-;)