びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

いま、いる場所

 この〃ひとやすみ〃を書き始めたのが東日本大震災翌年の冬でした。
 
 最近はもう書くこともなくて、ぼーっとめくったら、ああ、もうそんな前だったのかと、、、、少し11年前を読み返しました。
 
 現役生活最終盤に向かい、それでも日常の些末なことにこだわっていた頃
 
 その後2017年に引退して、望んでいた〃ひきこもり生活〃をはじめ、殆ど趣味三昧で、いやぁ~、のびのび、こんな楽しい時間、しみじみと送れるのかと
 
 身近のトラブルは無い訳ではないので、生活が賃金に縛られていない分、そこにも時間を割くことができたのでこれも助かった訳です。
 
 この世相の中で、この〃平凡さ〃に心底感謝せねばと思いながら、こうして6年過ぎ、ディスプレイで確認できる世界の状況、コロナ禍社会、外交危機、身近な高齢化の現実化・・・
 
 自由な時間を得た割には、結局なにもまともに結果は出ていないと、正直、最近は否定的感情が増えて、ぐるぐるし、
 
 小さな現実と大きな現実と、そしてこの自分の酩酊したような精神状況、肉体状況がぬるい鍋の中でどろどろして、
 
 それでも、かろうじて最低限の人間関係は標準的言語感覚でさばいていて、決して錯乱している訳ではなく、
 
 好きな飛行機でたとえれば、機体は問題なく燃料もほぼ目的地分積まれていて、運航のためのプログラムもトリプルチェックを掛け、行先の天候にも問題となる情報もなく・・・
 
 有り難いことに、この人生、いろいろあったにせよ、今、〃この空の旅〃に向かえる・・・
 
 と、もしかしたら錯覚していたのか?
 
 
 報道で、各分野の著名人が亡くなるニュースが多いこの頃。
 
 回顧的に方々の人生が紹介され惜しまれています。
 
 こういう一芸を成した方々は、それぞれの結論として、どのような場所にいたのでしょうか?
 
 
 想像ですが、恐らく誰もが「結論的な場所」に到達していたとは思えません。
 
 
 生まれ、生き、そして生の死
 
 
 偶然に存在し、未知の時空に消滅して行く
 
 
 最近、こんなことばかり言葉を変えて書いてますが、
 
 「流転」とは良い言葉です。
 
 はじまりもおわりもない
 
 0と1で処理されているコンピュータを考えてみると面白いです。単純なものが、実は無限の可能性を生み出している・・・。
 
 なので、構成された言葉自体はあまり価値はなく、存在がつねに運動して留まることをせず流れていく、その変化は驚きでも喜びでも、悲しみでも、絶望でもない、
 
 無味無臭の未知なる仕組みだと感得すれば、
 
 その場所、その時こそが目的の地であるのでは、、、
 
 
 と、
 
 たぶん誰もがそこまでは自分一人で来られるのですが、
 
 残念にも人類の歴史の中で、その「目的の地」が信仰、宗教に化けてしまったり、真理の追究と称して破壊的科学に脱線したり、人間の動物的生存本能が弱肉強食化し、あらゆる差別によって目的を見失う変質をきたし・・・
 
 なぜか、最近の出来事は、そんな悲しみを誘います