びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

法治国家

 〃嫌な″言葉です。
 
 昔、ホリエモンが、たしかテレビ番組の中で見たのですが、「法律ができてしまう前にそれをヤル」みたいなことを言ってました。
 
 この人のように、頭が良くて法律のこともよく分かっている人は、きっと得をするのだと思います。ただ、彼の場合は法令違反で刑務所に入ってしまったので、何となく憎めません。立場は私たちと同じなのだと・・・。
 
 バカげているのは、税金をごまかしてもしらばっくれて、その上、逮捕もされない質の悪い政治屋集団を選んでしまっている国民です。
 
 これぞ法治国家の本質なのだと思います。
 
 「国民が選んでしまったのだから、仕方ない、責任は個人でなく国民にある」
 
 「民主主義に罪はない」
 
 
 たとえば、ロシアのプーチン、中国の習近平とかとか、このような人が支配する国家は、この人たちが法律をつくってしまい、法に従わなければ暗殺されるみたいな、恐怖におののいて国民は何も言えない訳ですが、これは法治国家とはいえず、「エセ法治国家」なのでしょうが、どうも、人間は怖さをともなうリーダーを求めるようで、日本人も他人事ではありません。
 
 日本は法治国家といいながら、国民多数が法に従う一方で、法に従わない人達を政治集団化させているのでは、これもまたエセだといえます・・・。
 
 つまり、実は世界には「法治国家=民主主義」など存在しないのではと思えてしまいます。
 
 そして、このことが、日常の息苦しさ、刹那的余興にしか〃楽しみ〃を感じられない日々の現実だと、、、
 
 「国民国家」という言葉がありますが、言葉に歴史があります。
 
 君主が絶対的権力で市民を支配していた時代が、革命によってその体制が否定されて、国民が権力を掌握して成立される国家=「国民国家」ということになりましたが、
 
 「朕は国家である」というルイ14世の有名なセリフがありましたが、それが「国民は国家である」になった訳です。
 
 こうして市民全員がチームプレーヤーになりましたが、大勢でゲームをやるためには「ルール」が必要なのは誰が考えても明らかで、しかも、全プレーヤーが納得できる誰も逆らえない内容のルールが必要で、
 
 こうしてプレーヤが毎日暮らす家、「国家」のための最高ルール「憲法」が成立しました。
 
 これゆえに、日々の暮らしの変化によって、ルール(法律)の細部に小さな変更やさらに新しいルールが作られたり、、、
 
 この無数のルールは、国民にとって最も重要な生命の安全・心の安心、そして何より「国民が主体であり、絶対的個人支配を否定」→民主主義を守り抜くための絶対ルールである
 
 「憲法」を制定するに至ったわけです。
 
 今、その憲法を、「憲法改正しろ」と言っている質の悪い政治集団が何を考えているのか?
 
 「日本国憲法 第96条」では、憲法を変える最終決定権は、上述してきたとおりそれも国民の権利であるので、国民の判断が必要(国民投票)で、多数決の原理で、国民の半数以上の賛成が必要とあります・・・
 
 ロシアや中国のような「国民国家」に値しないような「独裁国家」を選ぶか、これぞ「法治国家」であると示せるような国家、それを求めるか、求めないか、すべてが一人ひとりの決断に迫られている、、、、
 
 その可能性が残されていることのみ取り上げても、まだ、日本は「法治国家」であるといえるのではと思えます。この言葉が〃好まれる言葉″になることを願います。 
 
※歴史上の悪人のひとりにされているドイツ第三帝国総統ヒトラーも、当時のドイツ国民の選挙によって選ばれました。国民が求めたことの結果であり、その責任は国民にあったといえます。